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福岡地方裁判所小倉支部 昭和30年(わ)828号 判決

主文

被告人等は各無罪である。

理由

本件公訴は被告人両名は水谷信夫と共謀の上前借金を騙取しようと企て被告人品川敏枝に於て従業婦として稼働する意思並前借金を返済する意思がないのに拘らず昭和三十年五月下旬頃京都市下京区西木屋町通貸席業直博こと梅本直広に於て同人に対し情を知らない浜田トシ子を通じて被告人品川敏枝を前借金十三万円で働かして貰い度い旨申欺きその頃被告人水谷ヒズ子の肩書居宅に於て同人から右浜田トシ子を通じて現金十三万円の交付を受け以つて騙取したものであり右は刑法第二百四十六条第一項の詐欺罪に当ると云うのである。よつて証拠を案ずるに、

一、梅本直広の司法巡査に対する供述調書

一、証人浜田幸一、同浜田トシ子の当公判廷に於ける各供述

一、水谷ヒズ子の司法巡査及司法警察員に対する各供述調書三通

一、水谷ヒズ子の検事に対する第一回供述調書

一、水谷信夫の検事に対する第一回供述調書

一、被告人品川敏枝の当公判廷に於ける供述

を綜合すれば右公訴事実中雇主梅本直広に対する稼働方の申入は浜田幸一を通じ同人から書面で申入の結果同人宛に前借金の送金があり同人から更に浜田トシ子を通じて被告人等に渡されたものである(現実に被告人等に渡された金は十二万四千円であるけれどもその外に六千円は浜田トシ子にその侭預け京都行の旅費等を支弁して貰い結局十三万円を受取つた勘定になる)とする外公訴事実の外形的事実は之を認められる。

しかし以上の各証拠に依れば被告人品川敏枝と相手方梅本直広間の契約は被告人品川が梅本の為に売淫行為を職業的にすること及之を条件として所謂前借金の授受を約したものであること、金十三万円の授受はその契約の履行として為されたものであることも亦認められる而して右の契約中売淫行為を職業的にすることを内容とする部分とそれを条件として前借金を支払うと云う部分とは不可分の関係にあるものと見るべきであつて而かも斯様な契約が公序良俗に反し違法なものであつて、法律上無効なものであることは民法第九十条や婦女に売淫をさせた者等の処罰に関する勅令(昭和二十七年法律第百三十七号に依り法律としてその効力を存続させらる)の規定から明かである従て又右前借金の支払は民法第七百八条に謂うところの不法原因の給付であり且つ右契約の違法無効であることは既に公知のことであつて出捐者梅本直広がこのことを知らなかつたと見るべき事情はないから右の給付は不法原因の給付であると同時に非債弁済でもあることは疑を容れないところ飜つて惟うに凡そ詐欺罪に於ては犯人の側に欺罔があり相手方の側がその欺罔に基く錯誤に因り犯人の側に財産を交付(或は財産的利益の供与)したとしても相手方の側に財産上の損害が生じないならばその成立を認め得ないものであることは詐欺罪が財産権の保護を法益とする所謂財産奪取罪の一であると云うことから当然のことであつて此の結論は刑法が詐欺罪の成立要件として相手方の側に損害の生ずることを要する旨特に規定すると(例えば独逸刑法第二六三条)否とに拘らないことであるが本件について見れば相手方梅本直広の前借金支払と云う出捐はなるほど被告人等の欺罔もそれに基く錯誤もなかつたならば即被告人品川が真実稼働の意思でないことを知つて居たならば前借金を支払わなかつたであろうことは之を推するに難くないところであるから本件前借金は欺罔と之に基く錯誤とに因り支払われたものと見られるけれども此の支払が不法原因乃至非債弁済であると云うことの認識については欺罔もなければ錯誤もなく而かも尚且つ為すべきでないところの不法原因の為の給付を梅本自ら敢てしたものであり従つてその出捐行為が始まると同時に即出捐の瞬間に出捐者自身の責任に於て不法性を帯ぶるに至つたものであるから出捐者梅本には出捐の動機につき欺罔と之に基く錯誤があつたに拘らず叙上民法の規定上之が返還請求権を有しないものと云うべく之を換言すれば此の出捐に因る相手方梅本の損害は結局に於て出捐者梅本が自ら招いたものであつて梅本の自ら負担すべきものであり之を欺罔者であるとは云え被告人等の負担に帰せしめることはできないものであるから法律上の見地からは梅本には何等の損害がなかつたことに帰し従つて詐欺罪の成立は遂に之を認むるに由ないものと云わなければならない彼の他人を欺罔して財物を交付させた場合でもその財物の交付を受くるにつき正当な権利を有した場合には詐欺罪は成立しないと云うのは結局被欺罔者に損害がないからであると解される然れば本件公訴は結局に於て犯罪の証明を得ないことに帰するから刑事訴訟法第三百三十六条後段に依り被告人等に対して各無罪の言渡をしなければならない。

仍て主文の通り判決する

(裁判官 吉川円平)

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